クラタタカシのブログ

この文章に意味はありません

卑しくても、食べなくては。

下痢も治り、やっとトイレの呪縛から開放されました。
ただ、金曜日、土曜日と結局何も食べないで床に伏しておりました。
ただでさえ、発覚時から固形物は食べておらず、主に点滴とゼリーでやり過ごしていたので肌荒れが酷く、かなりフラフラです。
これが世にいう栄養失調かと、死んだ頭と顔で思いました。

何か食べなくては。
食材を買いに近所のセイユーまで歩きながら、そういえば「食べることは、生きることだ」と誰かに言われたことを思い出しました。
誰かに言われたのではなく、小説やドラマのセリフかもしれません。

実際このまま食べなくては死ぬなと思い、しばらくは普通に食事出来ないだろうけど、沢山魚や野菜を買って帰ってきました。
そして、無意味に沢山の食材をカゴに入れながら、そうだよな、食べなきゃ死んじゃうよな、としみじみ思ったりもしました。

逆に健康的で比較的ふくよかな体型の人というのはしっかり食べて、しっかり日々を生きているということかも知れません。
高校時代の同級生に『赤津』という男がいました。サッカーが上手い小太りの男で、醜めのゴールデンハムスターを想像してください、それが『赤津』です。
先日友人の結婚パーティーで再会した時には、ミディアムレアのハムになっていました。
ちゃんと生きているとは思えないので説は不成立です。


小説やドラマなどでも食べることや食事シーンを、生きることや前に進むことの一種のメタファーとして表現しているものは多いと思います。
この前書いたアンナチュラルでも、主人公の三澄ミコトの出勤前のロッカールームでの朝食シーンが何度か出てきます。
決まって重いシーンや重い仕事が終わったあとに、彼女は一人、大口でしっかりと朝食を頬張るのです。
それを見て僕は、ああ彼女はそれでも強く生きていくのだなと思いました。
食事は基本的には能動的な生命活動であり、それをしっかりと行うことがそう見せるんでしょう。

千と千尋でおにぎりを食べるシーンや、3月のライオンで川本家が父親の件で泣きながら山盛りのご飯を食べるのも、同じような意味合いを感じます。


吉本ばななさんの「キッチン」でも、食事が生きることのメタファーになっていたなーと今になって思います。
読んだのは確かもう10年くらい前ですが、今でも好きな本は、と尋ねられたらお勧めする一冊です。読み易く、内容は重い部分もありますがとても前向き、胡散臭さのない肯定感のある小説です。


キッチン (角川文庫)

キッチン (角川文庫)


小説の中で主人公が大切な人を救うキーアイテムとして、カツ丼が出てきます。子細に書くとネタバレになるので書けませんが、ここを読むといつも「ちゃんと食べて、生きなくては」と感じます。

離れて暮らす親や恋人が、「ちゃんと食べてるか」と聞くのはそのままの意味ではなく生存確認や状態確認なんですね。食品等の仕送りをするのも同じことだと思います。
ちゃんと食べてたり、ましてや自炊なんてしてたら手放しで褒め称えるべきです。サイコー!ぶらぼー!生きてて偉い!

親が食べているのか確認したり、結婚を急かすのは、人生に詰まってしまった時、絶望の中にいる時に、黙って美味しいものを一緒に食べることができる人がいるならば、人生はまだ大丈夫だと経験的に知っているからかも知れません。稀に孫というドラッグに脳をやられている場合もあります。

幸福とは、自分が実はひとりだということを、なるべく感じなくていい人生だ。


キッチンの中で、とても真理を突いているなと思った文章です。
一見寂しい真理だけど、作品中ではそう感じません。
薄くて文量もないですし、文庫本なのでかなり安く買えると思います。是非暇な時に思い出して読んでみてください。



食事は記憶とも密接な関係にある気がします。

他にも大学の時にゼミの人たちと卒論提出後にたべた丸香、高校の部活の人たちと食べた吉野家と匠屋、大学のバイト時代に賄いでよく食べていた豚団子のチリソースとか。その時その時、違った苦しみの中にいましたが、ちゃんと食べて生きてきました。
※ツイート内で泥を啜っている人は非常にお世話になった先輩で、そういう癖があるだけの普通の方です


ただ単に食事をして、一緒に話すだけの関係性の人ってこの歳だともうなかなか出来ませんよね。
僕が料理を作るので、是非一緒に食べましょう。(友人、僕を襲わない方に限ります)


栄養失調の頭でスーパーでふと思ったことから適当に書きなぐっていたら、結構長くなってしまいました。

卑しくても食べて、みっともなくとも生きていくぞ。

そんなことが書きたかったんです。
腸炎が治ったら流石にこんな頻度で書けないので、意識的に期間空けずに書けるよう頑張ります。
読みたい奇特な方がいたら、催促してください。