クラタタカシのブログ

この文章に意味はありません

継続と変節。

こんばんは。
例年、年の瀬になると何となく更新している気がするので2019年も書いておきたいと思い立ち、キーボードを叩いています。
2018年の12月はただただ苦しかった時期でしたが、現在は色々なものから距離を取って自分を客観的に見れている気がします。
もし僕が50歳くらいなら、このまま山に籠って陶器でも焼いていたかもしれません。
ただ、若くて大した資産もない私では、器ではなく家計が先に燃え尽きてしまいますので、まだまだ人里で生きねばならないようです。

※書き出しは2019年12月30日に行いましたが、以下の文章は2020年1月8日に書きました


『継続』することについて、2019年は頻繁に考えていた気がします。
自分が仕事を辞めたということもありますし、家族のこともあったり、継続することは改めて何よりも難しいと感じてきました。
始めることは意外と簡単で、少しの度胸と思い切りがあれば何でも始められます。莫大な初期投資や、資格が必要なものは別ですが。
例えば起業をしたと聞けばすごいように感じるかも知れませんが、起業自体は法人を登記すれば済みます。費用にして25万円くらいです。
それと比較してどれだけ小さくても、法人やビジネスを運営・継続していくことは途方もなく大変です。
また、始めることは基本的にエンタメ的だしイベント的なので楽しいものだと思いますが、継続は退屈で苦痛なものだと思います。
何かを成し遂げるためや物語を完結させるためには、この退屈な部分を乗り切らないといけないのですが、殆どの人がその苦痛に耐えられなくて匙を投げます。
ライザップは、この退屈や苦痛から人を逃がさない仕組みを商品にして成功したと言えます。(当然、CMなどのマーケティングも非常に上手かった結果ですが)


ちょっと話が逸れました。年末年始には、実家に少し帰りました。
2019年の夏頃から両親の間に問題が起こり、かつてない程の不協和音が家庭内で響き渡っています。
僕の家族は、少なくとも僕が感じてきた限りでは、比較的仲が良く居心地の良いコミュニティでした。
今思えば、母が居心地の良い空間にするために、コミュニティを継続するために、多大なコストや我慢を飲み込んで成立していたのだと思います。
どのコミュニティでも同じことが言えて、誰かがその場を守るために、継続するために、コストを引き受けてくれている事実に気づきます。
そして、コストを引き受けてくれていた人がその責務を放棄したり、居なくなると瞬く間にコミュニティは崩壊するのだと思います。
まだどうするべきか見当もつきませんが、そういうコストを引き受けてきた人が報われないのはあまりに理不尽というものです。


人の『変節』についても、考えていました。
人は良くも悪くも、変わらずにいられない生き物だと僕は思っています。
性格や容姿、考え方や価値観ですら、気が付けば変容してしまいます。
昔嫌いだったタイプの人間に、自分がなっていたなんていうことは特段珍しいことではないはずです。
継続していく内に摩耗していく自分を客観的に認識して、意識的に、へばりつくように、元の位置に何度も戻すことを繰り返さなくては初心なんてすぐに失われます。
対策として、「今の自分は変節していないか?」、紙に書いて自問自答しようと思います。ぱっと見、狂人の所業ですが、今のところはこれが最適解です。


今丁度、元日産の会長であるゴーンさんが会見を開いています。
ゴーンさんの主張自体はそれほど興味ありませんが、弁護士団の一人である高野隆氏が書いたブログは凄みがありました。
依頼人に逃亡されたこと、自らが身を置く法曹界、司法制度に対する正直な気持ちが書かれています。


blog.livedoor.jp


僕らにはゴーンさんも、検察と日産も、メディアも、真実を伝えているのか確かめる手段がありません。
ファクトを確認することにメディアは実質使えないのなら、当人の一次情報に勝るものはなく、高野隆氏が少なくともどう感じたのかが僕らが唯一知り得る真実なんだと思います。


非常に散らかった内容で申し訳ありません。
思っていることが個々にあったのですが、関連性がない上に、文章にまとめることを放棄しました。
そろそろ内容のないことを書こうとは思っているので、次は頑張ります。

私が賢明でありますように。

お久しぶりです。
このブログも含めて、あらゆるSNSやメッセージをほぼ見ない、更新しない日々が続いて気づけば数ヶ月が経過していました。以前から約束していた旅行や冠婚葬祭だけ参加して、他は自分のためだけに時間を使いました。
連絡をしてもらっていた方、申し訳ないです。これから返していこうと思います。

先月末で数年間勤めてきた会社を退職しました。
2018年の末頃には退職することを決めていたのですが、3月までという話がまとまらず、更には6月までという話も駄目で、結果的に決算期に当たる10月まで在籍することになってしまいました。
加えて退職すること自体は決定事項だったので、その期間の年俸査定は下げられるというおまけつき。税金払うのが結構大変で、手取りだと最低の年だったかも知れません。

今日はそういう愚痴が書きたかったわけではなく、組織の中の人間としてどういうことを思ってきたのか記録しておこうと思い、このブログを書いています。
袋小路になってしまったとき、読み返して賢明な判断ができますように。



人生には3つの最大制限があると思っています。
『金』、『時間』、『健康』です。
この内1つでも欠ければ、自分の意思決定や自由に大きな制限を与えます。仕事や人や環境によって、この中の一つでも自分から奪われていると感じる場合には、速やかに離れた方がいい。
損切りと感じるような場面でも、速やかに決断したほうが無難です。
『金』は取り返せるが、『時間』と『健康』は取り返せません。『金』の本質は循環ですが、『時間』は消費、『健康』はゼロサム。この性質も十分に考慮した方がいいと思います。


過ちを犯した場合には、意識的に保身を止める、徹底的に義理を通して短期的な信用を捨て長期的な信用を得た方がいいです。
真に積み上げてきた実績を台無しにするかは、この選択で変わります。
また、何よりも保身のために秘密を作る行為は自分自身に重い負荷をかけます。常に頭の片隅に消えない問題が残り、パフォーマンスを低下させ、最終的に精神面の健康を失います。
オープンでいることは自分の精神的安全性を担保します。
減点主義の評価体制ではなく、加点主義の環境に身を置かなければオープンでいることは難しいと思います。


役職は飽くまで役割です。負えるのは職務上の責任であり、経営結果に対する責任は取れません。
勤め人である限りリスクを負えないのだから、リターンは基本的にありません。
冷静に自分の行動のリスクとリターンが見合っているか、考えた方がいい。
但し、エクイティ面での報酬がある場合は別です。自分が取るリスクやコストが大きなリターンとなり得るので、どうするべきか意思決定するべきです。


最後に、あらゆる面で追い詰められたときに自分を周りから遠ざけないことです。自分を遠ざける原因は殆どの場合、自分のプライドです。惨めな自分を晒すことに我慢できない、周りの人間に失望されたくないから、自分を世間から隠蔽したり最悪そのまま消えてしまうのだと思います。
少し前に海外のYouTuberである、Etikaさんという方が自殺しました。自殺の前にinstagramのストーリーに動画を投稿しており、その心情は僕もよく判ります。
YouTubeに日本語字幕付きで転載されていたので、貼っておきます。特にショッキングな内容ではありません。

www.youtube.com

周りからの評価や見え方と、自分自身の実態に差が出来すぎたときにその段差を自分から降りていくには相当の勇気が要ります。(高低差が逆の場合にも相当苦しいと思いますが)
自分を誰も知らない場所に行ってしまいたいという願望も、周りからの評価や見え方をリセットして楽になりたいということだと思います。ただ、現実的にそんなことはできません。Etikaさんのように自殺する方が手段としては容易です。
対策としては意識的にプライドを捨てることと、仮に自分が落ちぶれたとしても態度を変えない人たちを思い返すことです。
それは家族かも知れないし、昔からの友人かも知れません。
収入の高い仕事も、地位も、親しい友人や家族を得るよりもずっと容易に手に入るものです。何よりも貴重なものを自分から遠ざけるべきではありません。



僕と僕の友人たちが皆、自由で幸福でありますように。
選択を誤りませんように。
ちなみに僕は今とても元気ですし、仕事も楽しくやっていますのでご心配なく。ではまた。

卑しくても、食べなくては。

下痢も治り、やっとトイレの呪縛から開放されました。
ただ、金曜日、土曜日と結局何も食べないで床に伏しておりました。
ただでさえ、発覚時から固形物は食べておらず、主に点滴とゼリーでやり過ごしていたので肌荒れが酷く、かなりフラフラです。
これが世にいう栄養失調かと、死んだ頭と顔で思いました。

何か食べなくては。
食材を買いに近所のセイユーまで歩きながら、そういえば「食べることは、生きることだ」と誰かに言われたことを思い出しました。
誰かに言われたのではなく、小説やドラマのセリフかもしれません。

実際このまま食べなくては死ぬなと思い、しばらくは普通に食事出来ないだろうけど、沢山魚や野菜を買って帰ってきました。
そして、無意味に沢山の食材をカゴに入れながら、そうだよな、食べなきゃ死んじゃうよな、としみじみ思ったりもしました。

逆に健康的で比較的ふくよかな体型の人というのはしっかり食べて、しっかり日々を生きているということかも知れません。
高校時代の同級生に『赤津』という男がいました。サッカーが上手い小太りの男で、醜めのゴールデンハムスターを想像してください、それが『赤津』です。
先日友人の結婚パーティーで再会した時には、ミディアムレアのハムになっていました。
ちゃんと生きているとは思えないので説は不成立です。


小説やドラマなどでも食べることや食事シーンを、生きることや前に進むことの一種のメタファーとして表現しているものは多いと思います。
この前書いたアンナチュラルでも、主人公の三澄ミコトの出勤前のロッカールームでの朝食シーンが何度か出てきます。
決まって重いシーンや重い仕事が終わったあとに、彼女は一人、大口でしっかりと朝食を頬張るのです。
それを見て僕は、ああ彼女はそれでも強く生きていくのだなと思いました。
食事は基本的には能動的な生命活動であり、それをしっかりと行うことがそう見せるんでしょう。

千と千尋でおにぎりを食べるシーンや、3月のライオンで川本家が父親の件で泣きながら山盛りのご飯を食べるのも、同じような意味合いを感じます。


吉本ばななさんの「キッチン」でも、食事が生きることのメタファーになっていたなーと今になって思います。
読んだのは確かもう10年くらい前ですが、今でも好きな本は、と尋ねられたらお勧めする一冊です。読み易く、内容は重い部分もありますがとても前向き、胡散臭さのない肯定感のある小説です。


キッチン (角川文庫)

キッチン (角川文庫)


小説の中で主人公が大切な人を救うキーアイテムとして、カツ丼が出てきます。子細に書くとネタバレになるので書けませんが、ここを読むといつも「ちゃんと食べて、生きなくては」と感じます。

離れて暮らす親や恋人が、「ちゃんと食べてるか」と聞くのはそのままの意味ではなく生存確認や状態確認なんですね。食品等の仕送りをするのも同じことだと思います。
ちゃんと食べてたり、ましてや自炊なんてしてたら手放しで褒め称えるべきです。サイコー!ぶらぼー!生きてて偉い!

親が食べているのか確認したり、結婚を急かすのは、人生に詰まってしまった時、絶望の中にいる時に、黙って美味しいものを一緒に食べることができる人がいるならば、人生はまだ大丈夫だと経験的に知っているからかも知れません。稀に孫というドラッグに脳をやられている場合もあります。

幸福とは、自分が実はひとりだということを、なるべく感じなくていい人生だ。


キッチンの中で、とても真理を突いているなと思った文章です。
一見寂しい真理だけど、作品中ではそう感じません。
薄くて文量もないですし、文庫本なのでかなり安く買えると思います。是非暇な時に思い出して読んでみてください。



食事は記憶とも密接な関係にある気がします。

他にも大学の時にゼミの人たちと卒論提出後にたべた丸香、高校の部活の人たちと食べた吉野家と匠屋、大学のバイト時代に賄いでよく食べていた豚団子のチリソースとか。その時その時、違った苦しみの中にいましたが、ちゃんと食べて生きてきました。
※ツイート内で泥を啜っている人は非常にお世話になった先輩で、そういう癖があるだけの普通の方です


ただ単に食事をして、一緒に話すだけの関係性の人ってこの歳だともうなかなか出来ませんよね。
僕が料理を作るので、是非一緒に食べましょう。(友人、僕を襲わない方に限ります)


栄養失調の頭でスーパーでふと思ったことから適当に書きなぐっていたら、結構長くなってしまいました。

卑しくても食べて、みっともなくとも生きていくぞ。

そんなことが書きたかったんです。
腸炎が治ったら流石にこんな頻度で書けないので、意識的に期間空けずに書けるよう頑張ります。
読みたい奇特な方がいたら、催促してください。

大きな石をめくる。

今日も便座の上からお送りしております。
熱は下がりきったのに下痢が治る気配がない、もう一生このままなのかも知れません。なんて可哀想なアラサー独身男性。
明日もどうせ出社できなそうなので、どうせ暇な今のうちにブログ書いてしまおうという浅はかな作戦でやって参ります。

一般的に、人は得体の知れないものに対して恐怖を抱くそうです。
暗闇が怖いのは視覚から得られる情報が少なく、数秒後の事態が予想できないから。
名前や知識のない病気や動物が怖いのは、そのリスクを測りかねるから。
確かに仮にゾンビが発生したとしても、捕獲されて伝染性がなかったり、加虐性がないことが判れば怖いとは感じないと思います。
更に知性があれば、少し腐敗臭のする隣人として付き合っていけるかも知れません。夏場の付き合いを避ければ問題ない点は太った人と一緒です。

人見知りの人も、基本的には同じ心理かも知れませんね。
人に限らず、得体の知れないものに人一倍恐怖を感じるのかも知れません。
こういう人は、良くも悪くも人を客観的に分析することに長けているように感じます。
仲良くなって後々話してみると、「最初は胡散臭い人かと思ってました、笑顔が偽物です」とか言い始めるんです。サイコパス系の小説だったら、残念ながら序盤で死ぬでしょう。「君のような勘のいいガキは嫌いだよ」というやつです。


先日はクソポエムを投稿したので、今日は久しぶりに好みの小説の紹介をしようと思います。
貫井徳郎という方の、「微笑む人」という作品です。



所謂サイコパスものですね。
ただ書き方が珍しく、主人公で小説家である「私」が、ある事件をノンフィクションにまとめた、調査や聞き取りのルポ形式で話が進んでいきます。


サイコパスが躍動するサイコスリラーだと、貴志祐介さんの「悪の教典」が有名だと思います。社会的に高い評価を得ていた教師が、実はサイコパスかつシリアルキラーで、自分の計画が狂った挙句、導き出した最適解が自分のクラスの生徒を全員殺すことで、その一部始終を描いた映画は当時結構ショッキングな内容だった記憶があります。


悪の教典〈上〉 (文春文庫)

悪の教典〈上〉 (文春文庫)

悪の教典

悪の教典


伊藤英明さんもはまり役でした。
ご飯時以外に見ることをお勧めします、グロがだめな人も止めたほうがいいですね。後半の殺戮シーンよりも、前半のボロが出始めたときの得体の知れなさの方が不気味で面白いです。
人見知りのところで話した、勘のいいガキや同僚の教師もしっかりと殺されてます。


話を戻します。
今回紹介する「微笑む人」はこういうサイコスリラーな感じではありません。
過激な描写はありませんし、そもそも犯人は快楽殺人者ではないので不必要に人が死ぬことはありません。

発生した事件の犯人の供述に興味を持ち、小説家である「私」は事件の全貌と犯人である仁藤俊実のバックグラウンドを探っていくという形式です。
読者としては、この「私」を作者の貫井徳郎さんだと思えば物語に入り込めると思います。

まず、事件の概要はこんな感じです。昔読んだ記憶を頼りに書いているので、かなり適当ですが。


神奈川県のある河川で水難事故が発生。
溺れたのは3歳の少女とその母。父親もその場におり、救護にあたったが救急隊員が現場についたときにはすでに心肺停止状態にあり、病院で両名の死亡が確認された。

当初は単なる痛ましい水難事故として認識されていたが、後に近隣からの目撃証言で父親が妻子を意図的に溺死させたことがわかった。


この父親が仁藤俊実です。


当初は目撃情報が出ているという警察に対して容疑を否認していたが、妻の爪から殺害時に引っ掻いたと思われる犯人の肉片が検出され、仁藤のDNAと一致。これが決め手となり、仁藤は犯行を認めた。


問題は、犯行動機とその供述です。


「本が増えて家が手狭になったから、妻子を殺した」
「妻子がいなくなればその分部屋が空き、本が置けるようになると考えた」


わあ、サイコパス
不気味なまでの共感の出来なさ、だからこそ興味を持ってしまう「私」の気持ちは理解できますし、この本を手に取る人もその一人でしょう。

つまり、仁藤俊実にとって人を殺すことのハードルは古い家具を捨てるのと同じくらいに低かった、ということです。
ちなみにタイトルは、仁藤俊実が所謂社会的エリートでいつでも理知的で紳士的に振舞う人だったから、ということに由来しています。


木の根っこ付近にある大きな石をめくったことがありますか。
一見綺麗な場所でも、その石の下には夥しい数の虫や蛆がいたりします。
そういう怖いもの見たさで、是非暇な時にでもこの本を読んでみてください。
この事件以外にも、彼の過去を追う内に明らかになるその異常性、不可思議な事故等、「私」と一緒に沢山の石をめくることになります。


思ったより記憶から抜けていて長くなってしまいました。もうド深夜ですね…。
今度は意味のないブログを書くぞー。超お腹痛いー。

正しさ、について思うこと。

絶賛胃腸炎中につき、嘔吐は治まりましたが下の口が尚も雄弁です。
明日には仕事に復帰できると信じて、便器の上からお送りさせていただきます。ウォシュレットは日本最高の発明です。


年末年始に、TBSの『アンナチュラル』というドラマの再放送をしていたので視聴していました。
米津玄師さんの『Lemon』もとてもハマっており、周りの評判も非常に良いドラマだったので気になっていたのもあり、一挙放送がありラッキーでした。ひねくれて強がっていましたが、石原さとみさんが可愛いという事実は受け止めなくてはなりません。


アンナチュラル Blu-ray BOX

アンナチュラル Blu-ray BOX


結果からいうと非常に面白かったです。
主人公の三澄ミコトが非常に正しい人で、全編を通して正しさや正論が最終的に勝利する展開も好みでした。
不条理対正しさ、感情対倫理、慣習対真理、この辺の構図は脚本を書いた方の好みが多分にあるのではないかと思います。


で、そんなことはどうでもいいんです。

僕は「正しい人」が好きです。
「正しい人」が抗って、前に進んで、正しさを曲げないのが好きです。
自分が好きな作品はそういうものが多く、まあそもそも万人受けするものがそういうものだろうという気もしますが(所謂、勧善懲悪ものとか)、とにかく好きなのです。

しかし、冷静に考えれば「正しさ」という表現はそんなに胡散臭くないですが、「正義」はとても胡散臭いと思いませんか。
正義の反対は悪ではなく、また違う正義だというように、正義は何かを打倒することが前提になっている分、そもそも他者を打倒するという発想自体が正しくないだろうという気持ちになるからかも知れません。
もしくは、悪があることを前提にある正義に、悪を否定することから入る傲慢さに不誠実さを感じるからかも知れません。
対立軸があるものがそもそもナンセンスだろうと感じるのは世代かも知れませんね、政治の話とかに触るのに一般的に抵抗感があるのはこういうことが根本にある気がします。


話が逸れました。
では、私が感動する「正しさ」とは何なのでしょうか。

それはその人の持つ「軸」や「信念」です。
その人が信じる「真理」とも言えます。

打算ではなく、保身でもなく、自分の信じる「正しさ」を貫ける人を僕はとても尊敬しています。
自分にはないもので、その感動は共感ではなく、どうしようもない羨望です。
例え負けても、例え苦しくても、それでも私は「間違っていない」と言い切れる生き方ができることに酷く憧れて、感動するのです。



主題歌の『Lemon』の中に、「今でもあなたはわたしの光」という歌詞があります。
亡くなった祖父に対する歌らしいので、本来どういう意図で書いているかはわかりませんが、僕が受け取る「光」とは正しさです。進む指針だと思っています。
真っ暗闇の中で遥か天から落ちる、蜘蛛の糸の鈍い光という感じでしょうか。


すぐに易きに逃げる、卑怯で狡猾、口と態度が悪く、創作物なら必ず悪者になるであろう「クラタタカシ」という男。
正義なんて胡散臭いものにはなりたくないですが、せめて筋の通った自分の正しさを持った悪者になりたいと思う深夜でした。
これからどうしていくのか、春頃までにはしっかり方針決めて皆さんに笑ってもらえるようにしていきたいと思います。


アンナチュラルの主要人物の一人、中堂系という法医学者の口癖が「クソ」なのですが、私も下の口からクソを垂れ流しながらクソポエムを投稿させていただきました。ガハハ。

今月は頑張って、ポエム以外もあと1本くらい書きたいと思います。

神様はいないのかも知れない。

お久しぶりです。
労働などにうつつを抜かしている内に、2019年となっていました。
2018年は、難しい問題を前に立ち止まり、そこで野営キャンプをしている内に何度も朝を迎えたような年だったと思います。
どうしていいか判らず、目の前にある爆弾を前に「あーあー」と痴呆のように声を漏らして、気づけばその爆弾によって焼死した次第です。
そして情けないことに、焼死する寸前に僕は安心していました。

やっと死ねるのだと、やっと悩まなくて済むのだと。

これは比喩であり、過度な自虐です。
しっかり生きておりますし、大きな変化もなかったのが実際のところです。
ただ、このままでは良くないと、自分の危うさと向き合う必要があると、強く意識させられた年でした。
また、周りの評価に自分も騙されてしまっていましたが、自分が碌でもない人間であることを再認識して、それでも僕と周りが幸せになる方法を模索するべきだと決めた年でもあったと、覚えていたいと思います。
綺麗事を言っていますが、おそらく上手くいかずに今度餓死するでしょう。まあ、それでいいのです。



そんなことを考えておりますので、もっと無為な生活を送るべく精進していきたいと思います。
もっと沢山本を読みたいし、無駄に凝った料理を作ったりしたい。
意味のない文章を書いて、意味のないことをして、それを笑ってくれる人と一緒にいたい。
そのための無駄な努力をこれから3年くらいは続けていく所存です。
直近の仕事は婚約を決めた幼馴染のために、その婚約者を題材とした寝取られものの小説を執筆する予定です。まだ顔も知らないので、沼津に行く必要がありますが、友達のためなら苦ではありません。幸せになってほしいものです。

さあ、色々リセットです。
もう一度クソまみれの生活へ。やったー!

何の気なし、良いお年。

気づけば年末になっていました。
あっという間にこの時期になっていたように書いていますが、このブログのことは頭の片隅で気にしていました。
ずっと提出していないのに咎められない宿題のように、心を苛める錘になっていたのです。
僕は教室の隅で極力先生と目を合わさないように過ごす男子中学生でした。
所持している武器は、「やって来たけど家に忘れました」しかありません。瞬殺です。
大人になった今では噴飯ものの言い訳で、最早憐れみすら覚えます。

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